※今日のEntryは超大作ですので、読者の皆様、悪しからず・・・
今日で2011年度が最後だ。
明日からは2012年度、もう自分もWork experienceは満5年、まもなく28歳、MBA留学的にはもう残りわずかの年齢だ。
結論からいうと、この一年間を振り返ってみて、いろいろやったようで、何も結果が残らない一年だった。
TOEFL: 100点未満。TOP校に出願するレベルに到底至らず
GMAT: 400点台。まったく話にならないお粗末なスコア
奨学金: フルブライトは2次書類選考で落選、社費は最終選考まで残るも落選
エッセイ: せっかくAGOSの特別奨学生に選抜されるも、スコアメイクができずほとんどエッセイコンサルタントと会話できないまま受講期間終了
ご覧の通りだ。
自分ではそれなりに頑張った気がする。勉強をしなかったわけではない。TOEFLだって、もう嫌になるくらい受験した。ただ、結果だけを並べるなら、この惨憺たる状況だ。
ただ、この理由は自分でも十分納得できている。何をやるにせよ、中途半端だったからだ。
今日たまたま、ハーバードEducationに留学し、その後教育系NPOを立ち上げた、筆者よりひとつ年上の方のブログを読んでいたところ、
こんなことが書いてあった。
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2006年12月 キャンセル
2007年1月 62点
1月 68点
2月 78点
3月 85点
4月 91点
5月 96点
5月 98点
6月 99点
8月 101点
8月 100点
9月 103点
10月 104点
本当につらかったな~
平日は仕事をしているので、4時間~6時間の勉強時間
休日は13時間
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点数の伸び方が、勉強の密度で十分説明できる。結果を出す人とは、これだけコミットして勉強している人なのだろう。
一方自分はどうか。最近は正直、留学への想いと裏腹に日々の勉強に対するモチベーションが落ちていることもあり、平日は0~2時間、休日3~5時間程度しか勉強していない。
これでは点数が伸びるはずがない。
そんな状況で無駄に受験ばかりするものだから、間もなくTOEFL受験が30回に到達しようとしているのだ。
彼のいう「本当につらかったな~」と、筆者のいう「つらい」「テンションがさがっている」「気を取り直してがんばろう」は、全く言葉の重みが違ったのだろうと、自分を翻りながら読んだ。
つまるところ、自分には単に努力量が足りないだけなのだと思う。いろんなことを言い訳にして、すぐ逃げる悪い癖がついているし、
年末に「気持入れ替えます」的なEntryを書いたにもかかわらず、相変わらず本質的には気持が入れ替わっていない。
2012年に入ってから、そのだらだらした状況が続いている。早いもので、それで一年間の4分の1を浪費してしまった。スコアは先日報告したばかりだが、その状況が一目瞭然だろう。
こんな状況では、いつまで経っても結果は出せないだろう。
年度末を締めくくるこの一日で、自分の甘さを改めて認識し、安易な方向へ走らず、厳しく鞭を打ち続けなければならないと痛感した。
MBAへの想いを振り返る意味で、Why MBA?とキャリアゴールに関して、最近少しずつ起きている心境の変化も含め、自分の考えを整理するためにも、丁寧に書いてみたい。
◆はじまりは、"Where is YOYOGI station?"
高校時代にまで話は遡る。大学受験の勉強に打ち込む毎日のなか、親友から「気晴らしに新宿へ買い物にいこう」との連絡があった。たまにはいいかと思い、いざ新宿へ。一通り買い物も終わり、帰りの切符を買おうとしたところ、外国人に声をかけられた。
"Where is YOYOGI station?"
たったこれだけの質問。新宿から代々木へは隣へ山手線でいくだけ。
だが、何も答えられなかった。テンパったというのもあったが、英単語ひとつすら思いつかなかった。筆者が泡をふいているうちに、彼らは質問したことに恐縮し、「OK、自分たちで何とかするよ」という素振りを見せ、去って行ってしまった。
帰り道、自分の不甲斐なさに憤慨した。
なぜ受験勉強と称して、毎日英語を3時間も勉強しているのに、道ひとつ説明できないのか?
なんのために英語を勉強しているのか?
英語というツールを使って、コミュニケーションをするためではないのか?
ではなぜ自分は今日コミュニケーションができなかったのか・・・
日常のなかで見つけた、大きな問題意識であった。
◆失意の入学と世界一人旅
いつしか毎日の勉強に追われ、複数大学を受験し、入学したのは関東6大学のうちの一校。本当は自由闊達な校風に惹かれ早稲田に行きたかったが、受験日に高熱を出してしまい、朦朧としながらの受験で、結果は不合格。
一年浪人を考えたが、いわゆる「MARCH」のうちの一校から、一般受験での成績優良を理由に在学中学費全額免除のオファーを受けたので、これも何かの縁だと思って、一抹の失意を胸にしながらも入学することに。
しかし、入学した直後、やはり志望校へ行けなかったことへの憤りが心のどこかでつっかえになっていて、「どうせ2流の大学に入ったのだから、1流のやつらができないことをしよう」と、アウトローなやり方で自分だけの4年間をつくってやろうと思った。
そこで思い返したのが、新宿でのあの日だった。
「英語をもっとうまく話せるようになりたい。あの悔しさを晴らしたい。」
ネットで見つけた、とある旅行代理店へ走った。日本人がいない場所へ行って、どっぷり英語の環境につかりたい。同時に、語学学校のような狭い教室にとどまるのではなく、フィールドワークを通して生の英語を身につけたい。そんな想いの交点を、その旅行代理店は「現地集合現地解散の、International Volunteerによる、環境保護プログラム」という
オーストラリア全土でのプログラムで満たしてくれた。
1ヶ月半の滞在のうち、半分がそのボランティア、半分は旅程を決めないバックパッカーの旅だった。はじめは英語の習得を目的としていた。だが現地に渡ってみて、10人前後での世界各国から集まったボランティアたちと寝食をともにし、語り合い、チームに与えられたミッションを達成するという経験を通して、英語は単なるツールでしかなく、コミュニケーションの手段であること、英語を使いこなせることにより世界70億人のスタンダードのなかで生きられることの喜びを学び、もっといろんな国・地域の人とかかわりたいという想いが沸き起こってきた。
<ボランティアのメンバーと>
<道中の景色>
それからは、怖いもの知らずで、インド、ネパール、タイ、ラオス、エジプト、トルコ、ペルー、ボリビア、ブラジル、台湾、モンゴルなど、世界各国を飛び回り、現地の人々はもちろん、道中であう欧米人、日本人、韓国人などと交流をもち、「異なる価値観を掛け合わせることで新しい何かが生まれる」という可能性を自身の中核的考えとして思うようになった。
<灼熱のエジプト>
<アマゾンのワニと一緒に>
◆転機 ~ビジネス入門~
バックパッカーとしての毎日に突然の転機が。大学3年目を目前に控えある春休みの日に、タイの山奥にいる首長族に会いにいくために、道なき道をバイクで爆走。行きはなんとかうまくたどりついたが、本物の首長族に会い、気分をよくしていたのか、気を許して転倒。左足に大怪我を負ってしまった。
<合成ではありません>
これが転機となり、当時引越しのアルバイトをしていたのが、しばらく稼動できなくなり、「体を使えないのなら頭を使おう。頭を使えるなら、卒業して社会人となったときに生きるビジネスの分野にフォーカスしてみよう。」と考え、学生団体が開催する起業家セミナーや著名経営者による講演会などに片っ端から参加した。
その中で縁が会って加わったのが、早稲田の学生が中心となって設立する目前のNPO法人だった。当時のその団体のミッションは「Gapyear制度」を日本に導入しようというものであった。Gapyear制度とは、イギリスの大学で一般的な制度で、大学入学した1年目を、海外留学、ボランティア活動、インターンシップなどに投じ、それを学校にレポートすることで、1年目の必要単位相当分をすべて取得できる制度で、課外活動を通じ社会に通用する学生を育成できる制度だ。
これに共感し活動に参画、直後には法人化し、学生に課外活動を紹介するフリーペーパー発行やイベント企画を中心に活動し、筆者は企業協賛の獲得からイベントへのタレントブッキングなど幅広く貪欲に活動した。
◆次なる転機 ~NPOの法人化失敗、そして自分は何がしたいのか~
一時期学生スタッフ50人を超える組織にまで拡大、代表の鼻息も荒くなり、「代々木公園のイベントスペース(アースデー東京などを開催している野外コンサート会場)を貸し切って、学生3万人を読んだイベントを開催しよう!そしてそれが成功した暁には、その収益金を元手に株式会社化しよう!」とぶち上げた。
イベントのコンセプトは、芸能人によるフリーライブなどで若者を集客しつつ、留学支援・ボランティア・インターンなどを募集する企業・NPOを多数招きブースを設立、学生に課外活動が人間的成長をもたらせてくれる素晴らしいものであるということを周知する。またイベントの規模を武器にメディアを通じて広くパブを張り、大学に制度導入を促そうというもので、やろうとしていたことは間違ってはいなかった。
しかし、あまりにアグレッシブで無知な学生たちには度を超えたイベントだったのだろう、収支計画がずさんで、見込みのない収入をベースにイベント出費だけ豪華になっていく。芸能人もそれなりの人が来てくれることになったのはいいが、ギャラはどうするのかあいまい。一方で広報が不発で参加者の見込みが立たない。
こんな状態が続き、イベント準備は迷走。大学3年生の3月、本当であれば就職活動の真っただ中だ。株式会社化、そしてそこでの幹部就任を約束されていた筆者は、「シューカツ」なるものには興味がないとたかをくくっていたが、さすがに危機感をおぼえた。イベント当日は4月中旬。イベントには全力投球するが、きっとこのイベントは大ゴケする。そうしたら、就職先がない、まずい。
サラリーマンで何の変哲もない父に、ある日正直に全てを話した。
その彼から思わぬ叱咤をされることに。
「事業をやる人間にとって、収支計画は命だ。何が見込める収入で、その収入の確度はどの程度で、だからここまで金が使える。こんな簡単なことだが難しいのがビジネスだ。お前の話を聞く限り、収支計画の「し」の字もない。そんな甘い考えで何が起業だ。ビジネスをする資格はお前にはない。ビジネスのことをもっと本気で考え、一から勉強しなさい。」
その通りだった。
勢いで作った会社は必ず潰れる。しかも従業員やその家族を背負ってまで、だ。想いがどんなに正しかろうが、素晴らしかろうが、経営計画をまともに立てられない、ビジネス感覚のない企業に明日はない。
NPOの活動の傍ら、ふとした縁から六本木の某クラブのオーナーと仲良くなり、足しげく通っていたのだが、ヒルズ族の社長、その社員、芸能人、政治家と毎日のように会い、「大企業なんかかっこ悪い、ベンチャーで自分の力を発揮するんだ」とありがたく説教を頂いていた。
その影響もあり、盲目的にベンチャー志向に突っ走っていたのだが、自身の追い込まれた状況を振り返り、「どんな大企業だって、設立した日はベンチャー起業であった。逆にいえば、100年潰れなかった"ベンチャー"では、どんな経営をしているのだろうか」という点に興味を持ち、大企業へ進むというキャリアパスを考え始めた。
案の定、結果から言うと、400万円ほどの借金を抱えて大失敗。野外イベントだったこともあり悪天候で人足が遠のき、見込んでいた飲食の収入が振るわなかった。協賛金も目標額に達していなかったため、これを穴埋めできなかった。その後の損失処理については、言うまでもなく辛いものであったが、ここではその具体的な話は避けたい。
それまでの人生で最も苦しみ、辛酸を舐める経験となったが、ここでの教訓である「損するビジネスに意味はなし」は決して忘れないし、完膚なきまでに打ち砕かれた経験は人間を強くするもので、間違いなく今の自分を前に突き動かす力の源泉の一つとなっている。
この経験から、負けないビジネスを遂行する経営力を身につけ、将来的には当時の自分と同じように、想いがあって世のために活動しているのに、経営力がなく潰れていく企業や組織を救いたい、と思うようになった。
◆次なるステージへ ~総合商社における金融事業部門~
では、どこで経営力が身につけられ、また具体的にどうやって潰れていく企業を救えばいいのだろうかと次に考えた。
<どこで?>
経営者に近い立場、という意味では、どの会社でもいいから経営企画部に入ればいいのではないかと最初に考えた。だが経営企画部に入るには、営業やその他部局での長い下積み生活を積まなければたどりつけない。
では経営コンサルティング会社はどうか。残念ながら3月中旬にはもうほとんど有名ファームの募集は締め切られていた。また筆者の大学のレベルでは、マッキンゼーやBCGなどトップファームはまず受け入れてくれないだろうと容易に想像ついた。
次に出てきたのがリクルート。社長製造マシーンと言ってもいいほど数多たる社長を輩出している特殊な企業だ。だが、業界が人材や広告会社に集中しているし、またバックパッカーでの経験を通して、世界70億のスタンダードの中でビジネスを展開していきたい、という考えからすれば、国内メインのリクルートのフィールドでは、満足できないと思った。
そして行き着いたのが総合商社。「事業投資」―単なる投資をするのではなく、経営権が獲得できる相当分の出資を通して、事業そのものの価値を中長期的に向上させ、必要であればずっと株式をホールドしインカムゲインを享受するし、それかキャピタルゲインを狙って売却する、というビジネスモデルを確立している。
事業の価値を向上させるために、「ヒト・モノ・カネ・チエ」を惜しげもなく注ぎ込む。若手であっても、日常レベルでの業務は泥臭いタスク処理もあろうが、投資先の経営陣と対峙し事業をどうするべきか同じ目線で考えることができる。
そしてそのフィールドは全世界に張り巡らされている。日本という島国だけの発想では世界には通用しない。多様な文化を許容し、ロジックをゼロから組み立てなおすことで、真に価値あるイノベーションが生まれる。
こんな総合商社という世界に魅せられ、自分はどうしてもここに来たいと思った。
<どうやって?>
では、総合商社に入れば問答無用に経営力が身につき、経営力がなく潰れていく企業や苦境に陥っている企業を救えるのか?
事業にあまりに軸足を置きすぎて、特定事業には強いが、その事業の世界だけでしか戦えなくなってはいけないとも考えた。
「純粋にどんな企業であっても経営できる経営力」とでも言おうか、ユニバーサルな経営力を身につけたいと思い、その折に、「金融」の機能に着目した。
金融とはその字のごとく「金」を「融通」する機能だ。
ゴールドスミスの逸話にもあるように、余っている人の金を、必要としている人に融通する。融通してもらうのだから、融通してもらった人は利子というFeeを上乗せして貸主に返済する。
たとえば、ある若者が素晴らしいビジネスプランを思いついたとする。だが彼には金がない。どうするか?
佐川急便で5年汗水流して1000万円貯めるならどうか。一番堅実のように見える。だが、今日のプランが5年後も通用するか保証はない。今だからこそ、うまくいくビジネスだってある。
ビジネスプランを1ヶ月で綿密に練り上げて紙に落とし、エンジェル投資家、銀行に2週間かけて巡ってみてはどうだろう?その内容に隙がなければ、その場で金が出てくる場合が起こりえる。そこで調達した1000万円を元手に、プランを実行へ移し、案の定大当たりとなれば、借金の返済または投資家への利益分配ができる。本人はビジネスを形にしてHappy、世の中にサービスが生み出されUserはハッピー、投資家は余った金で収益を生み出せてHappy、みんなHappyなのである。
さらには「ファンド」も典型的な金融手法の一つだ。ファンドは砕いて説明するなら、「宝の山集金BOX」であるとよく筆者はたとえる。
「宝の山」があっても大抵は一人で辿りつけないことが多い。激流が待ち構えている。途中豪雨が襲ってくる。崖の上にある。誰でもアクセスできるところに宝の山なんてものがあるなら、とっくに誰かが到達し持ち去っているからだ。
それ故、橋をかけたり、雨合羽を買ったり、クライミングブーツを買ったりしなければならない。トレジャーハンターたちを雇ってチームを結成なければならない。これには当然金(=コスト)がかかる。だがこれらのコストを払ってでも宝の山に到達できれば、莫大な利益を獲得できる可能性がある。その金を投資家から集めるのが「宝の山集金BOX」だ。そのBOXには、以下のようなことが書いてある。
・集金額に比例して利益が分配される
・宝の山だと思って金を投じても、藻屑となるリスクがある
・集金後2年間は返金できない
・etc
こういう条件付き集金BOX(=ファンド)という「仕組み」をつくることで、一人ではできないことを実現できる。金融にはそんな力が秘められている。
日本には今、個人金融資産が約1400兆円ある。これまで世界の製造工場として自動車やエレクトロニクス製品を輸出し、言うなれば「日本株式会社」として蓄財してきた資産が山積している。この資産の約7割が日本国債に流れている。つまり、リスクフリーの資産、言いかえればタンス預金しているようなものだ。
日本人は、清貧の文化、投資を博打と見る志向を持つ傾向にあり、投資に対する姿勢が最も保守的な国の一つである。リスクを見極める能力を持った上で、こうした余った金を融通して、金を必要としているところに投じていく。日本に必要とされているのは、金融への知見とリスク耐性の向上ではないだろうか。
ただし、金融はあくまで機能であり、実ビジネスがその先にあって初めて意味をなすものであり、事業に裏付けられた金融プレーをするべきと考えた。
こんな問題意識から、上記すべてを当時の学生の自分が考えることはできなかったが、概念的にこのようなことを考え、総合商社における金融事業部門へ進みたいと熱弁し、見事その扉を開いたのであった。
◆Why MBA?
実際に念願の金融事業部門に配属され、ビジョンを達成する天命を与ったのだとの思いから、やれることは一通りやった。
最初に担当したのは、国内の某自動車リース会社への投資および経営管理。投資先の経営企画部と連携し、営業戦略の立案、社内ITシステムの刷新、全社的なコストカット、企業買収まで、若手ながら様々な業務に携わることができた。約2年半の経験である。
次に、早期グローバル人材育成を掲げる研修プログラムに抜擢され、南米のコロンビア共和国へ。ここでは商社ビジネスの最前線を見ることができたが、何より経験の糧になったのは、派遣元の部署が投資する自動車リース会社が現地にもあり、その経営管理に携わったことだった。
2週間ほどそのリース会社にデスクを設けてもらい、ほぼ全部署の部課長と面談させてもらった。日本で得た経験をベースに、面談する部課長一人一人に、こういう手法で顧客をつなぎとめるといいのではないか、この部分のコストがカットできる、自動車の仕入れはこうするともっとディスカウントできる、など、次々に経営改善策を提言。最後は社長にそのサマリーをプレゼンし、実際にいくつも提言をその後の経営に取り入れてもらった。
ちょうど半年間の研修を終えて帰国した直後からMBA受験を本格的に覚悟し、勉強をはじめた。2010年の4月の話だ。なぜか?
上記は仕事のほんの一部のポジティブサイドで、実際は、これらをその場の思いつきベースで進めてきたにすぎなかった。その場での対応で一応それらしい仕事はできてきただろうが、これらを体系立てて整理する時間や、そういうケースに直面した場合に適用できる理論としてどういったものがあるのかを落ち着いて考える時間がないまま突き進んできた感が否めなかった。
また、コロンビアに行った際には、英語力はそこそこあったものの、もっと突っ込んだ議論ができていればさらに面白いビジネスが生まれたのではなかっただろうと感じる面もあった。
さらに、これから事業と金融の両輪を回していくにあたり、資金の調達先、投資先のビジネスのいずれも世界に張り巡らせていかねばならない未来が見えているなかで、会社からスポット的な世界戦場が与えられるタイミングを待っているわけにもいかない、つまり自分から世界に打って出なければならないと考えた。
その点、まさにビジネススクールは、世界各国から、さまざまなビジネスバックグラウンドを持った腕利きが集まっており、意識高くその想いと頭脳力をぶつけあい、ケーススタディ、お互いの知見などあらゆるソースから将来自分が実現したいことのTipsをTake awayする。
そして卒業後は、金融の力を使いつつ、事業そのものの価値を向上させるプレイヤーになっていきたい、その実現に向けて、MBAという環境に20代最後の2年間を投じたい。この想いから、強い想いを持ってMBA志願を志したのである。
◆ポストMBAの行方
<初志>
当初のシナリオはひとつ。会社を辞めて私費で留学すること。実現したいことがより明確になりつつあるなかで、その達成のために必ずしも今の環境に固執する必要がないと思ったからだ。
実現したいことと何か。たとえるなら、「ポンコツ機を一機でも多く空にかえしてやること」だ。即ち、昔は大空を自由に飛び回っていた飛行機も、ポンコツ機になり飛べなくなるときは当然ある。原因は、パーツの老朽化かもしれないし、飛び方が空のコンディションにあっていないのかもしれない。こうしたポンコツ機を前に、足りないものは部品(モノ)、整備士(ヒト)、調達資金(カネ)、直すためのノウハウ(チエ)を掛け合わせて、ポンコツ機のパイロットやクルーたちと一緒になって修理する。
そして、ここからが重要だが、修理したポンコツ機のコックピットに、一員として乗り離陸、運命を共にすることだ。もしかしたら一緒に墜落するかもしれない覚悟をして手掛ける修理は本気であるし、再び空にかえれたときにはクルーたちとその喜びは分かち合える。
そしてフライトを一本終えて、もはやポンコツ機が立派なジェット機に返り咲いたその姿を見届けて、次なるポンコツ機の再生にひた走る。そうやって、世のため人のためになろうと頑張っているにも関わらず苦しんでいる企業を救いたい。Gapyear制度を日本に導入しようとひた走り、辛酸をなめた経験があるからこそ、同じ苦境に立たされている企業のために力を尽くせる。そんな想いだ。
具体的なキャリアで言うならば、事業再生ファンドやプライベートエクイティ(PE)ファンド(のなかでもディストレスに近いプレイヤー)にJoinしたいと思った。
ここまで明確になれば、あとはその方向に突き進むだけ。異動が前提の総合商社にとどまる理由はもはやないとの結論から、私費留学(偽りの説明で社費を獲得し、MBA卒業後すぐ辞めるのは潔くないとの考えから社費は全く考慮に入れず)を考えたのだった。
<変化 ~本当にやりたいこととは~>
初志に少しずつ変化が表れ始めたのが、昨年10月の部署異動がきっかけだった。それまでは一事業投資家の目線であったので、そのほかの投資家が何を考えているかを深く考える機会がさほどなかった。
一方、異動してきて担当になったのは、①不動産ファンド組成と、②子会社の証券会社のマネジメントであった。前者は国内の不動産に投資し、それをファンド化して投資家に売るという仕事、後者は、親会社(=筆者が所属する事業部)や外部のファンドから投資商品を仕入れ、投資家に売る会社であり、この会社の経営管理。いずれも顧客は日本が中心だ。
要はいずれも、投資家に投資機会を販売するのが仕事で、はじめて日本にはどういったタイプの投資家がいて、何をもとめていて、ボリュームとしてどうセクター配分(株、債券、不動産、ヘッジファンド、PEなど)されているかを認識した。
また、PEは発祥国アメリカでは相当なボリュームがあるものの、日本ではバブル崩壊後に弱体化した会社を一部PEファンドやディストレス投資家が買い叩き「ハゲタカ」というネガティブなブランディングがされてしまったこと、アメリカ的なドラスティックな経営再建を日本人のネイチャーでは実行できず、「事なかれ」主義の銀行や系列親会社がなんとかうまく延命させる風土であることもあり、下火状態が続いている。この事実も、書籍を通じてある程度は知っていたが、業界に入り投資家の声や様々なレポートから実態を知り、課題が多いことも分かった。
また、日本における事業再生の代名詞とも言える産業再生機構についてもかじってみたところ、素晴らしい功績は残したものの、その後解散し産業革新機構に移行してからは、事業規模も人材の質も以前のようにはいかない様子が見えてきた。
こうした時勢を鑑みるに、「この業界を俺の手で変えてやる!」という「パッション」、MBAという名前だけではすでにありふれた「こん棒」を両手に携えてPE業界に突入することが、果たして初志を成し遂げる解となりうるのだろうかと、立ち止まって考えるべきではないかという気もしている。
先に「ポンコツ機を空にかえす」という話をして、かつそれが自分の過去の体験に日もづいていることを書いた。またその想いへの前に、事業と金融を掛け合わせたビジネスを展開したいことも書いた。
どちらも根っこは同じで、要は、「事業経営を軸足におきつつ、金融の力を使って、世界に価値を創造すること」が根源的なビジョンであるということなのだ。その一つの側面が、住んでいる地域という意味で日本の個人金融資産1400兆円をなんとかしたいという考えであったり、NPOの失敗という過去の強烈な体験という意味では苦境に立たされている企業の事業再生であったりと、個別具体的な話に落とし込んでいくことで辿り着く枝葉の話なのである。
<この先の身の振り>
今実際にこの文章を書きながらはじめて自分でも整理できつつあるが、根源的なビジョンに立ち返ると、今いる会社でも外にいる会社でも実現は可能だ、という結論に到達する。
今いる総合商社の金融事業部門では、不動産投資、PE投資、リースが柱で、いずれも実物や実業をベースとする金融事業を展開しており、その地域は、各セクターにより偏りはあるが、日本、アジア、中東、欧州、北米と、世界へ張り巡らせている。
また、日本のマーケットにおいて今いる会社のプレゼンスは相当なものであることを感じており、日本の金融の在り方に一石を投じられるポジションにいることが、足元を見直すことで確認できた。
実際、先日より国内のとある一大プロジェクトに携わっているのだが、これまで積みあがってしまった負の遺産を、金融の力を使って対処しようという主眼で取り組んでいる案件であり、まさに事業の非効率を金融の力で変えるビジョンに合致した仕事だ。このプロジェクトのためにいくら深夜まで残業しようが全く疲れなかった理由は、そこにあるのだろう。
一方、外へ目を向けてみると、たとえば、以前からマークしているベインキャピタルはPEの最高峰の一つで、コンサルティングメソッドを最大限発揮して事業改革を推進し、一定期間で株式価値を高めて売却することで、投資の受け手も出し手もWin-Winの関係構築を実現しているプレイヤーだ。
また、ブラックストーンはPE、不動産、ヘッジファンドなど多様なセクターへ巧みに投資しつつ、それぞれのセクターでは綿密な精査を行ったうえで果敢にリスクを取りに行くアグレッシブなプレイヤーだ。そのほか、踏み込んだリスクを取ることで高いリターンを獲得するディストレス投資を得意とするローンスターについても言及しておきたい。
ただ、これら外資プレイヤーで仮に働くとするとそのDisadvantageは、日本の拠点スタッフとして採用されるケースが基本で、働くフィールドが日本に限定されることが通例であることだ。ややもすれば、中国の金が日本に流れてきたり、日本での経験を生かしてシンガポールに拠点を移し、そこからインドネシアに投資する時代が来て、外資系にJoinしても世界をフィールドに働ける時がそう遠くないうちに来るのかもしれない。ポイントは、そのリスクにBetするかどうかだ。
当初は私費(会社を辞める)が大前提の想定であったが、こうして考えてみると、まずは根源的なビジョンが、会社にとどまってもそうでなくても実現できることがわかったことが一つの発見である。
また、①日本経済を大きな視点から捉え金融の力を使って価値を生み出していきたいのなら今の会社、②グローバルベースでの活動が将来的に可能となることを期待し、かつドラスティックな経営改革と徹底した金融スキルの発揮により価値を生み出していきたいなら外資PEにいくべきだ、という現状の分類も改めてできた。
とするならば、どちらを選ぶか、であるが、これは今日のところではまだ決定できない。どこかの時点でする必要があるかもしれないし、あえてどちらも決めずにMBAに向かって突き進み、社費がつけば今の会社に、そうでなければ辞めて外資の道に、という「縁」で決めてもいいのかもしれない。
実は、このブログにはほとんど書かなかったが、数ヶ月前に社費選考に受験した。結果は最終段階でNGだった。私費が明らかに見えているのに、人事部をだまして社費でいこうという魂胆にはなり下がるまいと思っていたところを受けたのだから、心境の変化はあったはずだ。だがその時点では「迷い」に近い心境で、本当に自分がやりたいことがどこでならできるかをやや見失っていたのかもしれないと振り返って思う。
だが、こうして整理してみると、私費と社費のシーソーの中間点に帰ってきたようで、またリセットして考えていこうという気になった。
◆最後に
私費と社費、どちらを想像しようが、何はともあれ現実に戻ると、留学をするために必要なHomeworkをきっちりやらなければ、もとも子もないわけで、まずは足元のTOEFL・GMATをまずきっちりやろうぜ、という結論に至る。
今日は土曜日で時間があったということもあり、書き始めてからなんと6時間ほど経っている。最近、空き時間があってもなぜか勉強する気になれないことが増えてきており、このEntryの冒頭にも書いたとおり、勉強へのコミットが弱まっていた。
しかし、ここ最近自分がどの方向へ向かっているのか、大方針はぶれていないものの先端がぼやけていたのでモヤモヤしていたし、それもあって勉強に身が入らなかったのかもしれない。
いつのまにかこのブログ始めて以来の超大作になってしまったが、自分の整理のために書いたものであり、もしその思考プロセスを知りたいという読者の方がいれば、その方にお見せすることは一向に構わないというスタンスで書いたこと、ご理解とご容赦いただきたい。
では、一呼吸おいて、勉強再開しますか!!!!!